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故・大関孝紀さん(ソニー・ミュージックエンタテインメント)が日本の音楽業界、日本のヒップホップ・シーンに残した偉大な功績 VOL.1

2025年5月12日に永眠したソニーの名プロデューサー、大関孝紀さん。

大関さんはDef Jam、Tommy Boy、Relativity、Loudといったアメリカのヒップホップ・レーベルの楽曲を日本でヒットさせ、dj honda、ローリン・ヒルなど数多くのアーティストを世に送り出した人物である。これは1990年代、日本の音楽業界でヒップホップが売れるとか、定着するとかいったイメージをまだできていなかった頃から始まる話。何の前例もなかったその時代に、ソニーという大きな組織の中で、大関さんはヒップホップを信じ、アーティストを信じて、新しい道を切り開いていった。今回この記事を作った理由は、大関さんの追悼という意味合いもあるが、大関さんの偉大な功績を残し、伝えていきたいという気持ちの方が大きい。当時の大関さんとともに仕事をし、大関さんをよく知る、小沢暁子、目黒敦、大塚陽子、朝倉 “jun” 崇光、松田敦子、大野俊也(以上、敬称略)の6人による対談という形で、この記事を進めていきたい。


Photo: ビリー・ジョエル来日時のツーショット



■対談参加者の紹介

小沢暁子

SME洋楽制作本部ソニーレーベルで大関さんの後輩として、ともに宣伝を担当。1990年半ばにNY留学、帰国後SMEJインターナショナルで制作を担当。2000年代後半からソニーミュージックパブリッシングとSME HQマーケティングルームで洋楽を担当。2014年から5年間SME NYオフィス駐在。帰国後はSMEコーポレートビジネスマーケティンググループに在籍。本部署で久しぶりに大関さんと机を並べていた。


目黒敦(Archie Meguro)

1991年(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント入社。1996年よりSMEJのNYオフィス駐在。様々な邦楽アーティストの海外展開を担当。その中でdj hondaに関しては大関さんの参謀役(契約、レコーディング、現地レーベルなど)。2011年より現在、ウォルト・ディズニー・ジャパン(株)バイスプレジデント。ディズニーの音楽、ライヴ、キャラクターボイス、キャスティング担当役員。


朝倉 “jun” 崇光

1991年からLAで大学に通いながら、DJを行う。ASAP Productions、dj honda recordingsでアシスタント業務。帰国後、大関さんの紹介で、Sony Music Japan Internationalにて宣伝、制作を担当。現在、株式会社ドワンゴでニコニコ生放送の番組制作を担当。


大塚陽子

2000年に(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント入社。Sony Music Japan International在籍時、制作部門で大関さんの部下としてダンスミュージックを中心に様々なジャンルを担当。現在、SME / The Orchard Japanレーベルサービスチーム、セールス&マーケティングルームにてセールス業務及び洋楽担当。


松田敦子

PR / マインドフルネス瞑想講師 / 禅療法士。NY在住時代に大関さんとよく顔を合わせ、帰国後はオマリオンのPRなど仕事の交流もあり、飲み仲間でもあった。


大野俊也

編集者。Fine、WARP、FLJといった雑誌で編集長を務める。大関さんとは’90年代~2000年代、東京、NYの現場で一緒になることが多かった。



ローリン・ヒル初来日時のパーティにて 1999年1月

Image



大学卒業後のバイトからソニー・ミュージックに入った大関さん


大野俊也 大関さんとは、気づくとNYでよく会ってた感じなんですけど、そもそも大関さんはどういう背景で、洋楽とかヒップホップを手がけることになったんですか? ソニー・ミュージックはすでにDef Jam Recordingsをやっていましたよね。


小沢暁子 Def JamのLL・クール・Jとかを当時ソニーからリリースしてたんですけど、Def Jam本体がユニバーサルに移ってソニーからのリリースがなくなったんですよ。大関さんは最初、大学卒業後のバイトからソニーに入って。仕事ができるから、’89年に社員になって最初は東京のプロモーションからスタートします。その後、福岡に異動になって、ニューキッズ・オン・ザ・ブロック、デジタル・アンダーグラウンド、フィッシュボーンなどのアーティストを、福岡地区で宣伝することになり、2年間TV、ラジオ、クラブなどのプロモーションを担当してました。いまだに福岡の人が、「大関くん、大関くん」って言うくらい、福岡では可愛がられてたみたいです。


松田敦子 告別式の時も福岡の方たちがいらしてましたよね。


朝倉 “jun” 崇光 福岡のDJの方ですね。


小沢暁子 大関さんはヒップホップも大好きだったけど、プロモーション担当として全部をやるわけですよ。マライア・キャリーとか、当時会社で推してたものは全部担当してて。ハードロックが大好きだから、リヴィング・カラーとかTOTOも大好きで。「TOTO、最高だよな」って言うんです(笑)。それで、大関さんが福岡で手がけたニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックの施策が大成功して。あまりにも素晴らしい施策だったので、東京でも参考にして、さらにパワーアップした形でやることになったみたいです。大関さんが東京に帰ってきたのは’92年なんですけど、プロモーション・チームに入って、まずはその中のパブリシティのチームで仕事を始めて。大関さんと私を含む4人がパブリシティ担当だったんです。大関さんは扶桑社の担当で、しょっちゅうSPA!の「今週の顔」は獲ってくるんですけど、他が獲れなくて。でも、「今週の顔」を獲ってくるから、スゴいし、ま、いいかということになって。でも、本人は向いてなかったと言ってましたね。「僕はTVとかラジオ向きなんだよー」って(笑)。その時、先輩である大関さんに仕事上のアドバイスを求めたことがあったんですけど、「僕だって初めてだから、知るわけないじゃんか」って、全然面倒を見てくれないんです(笑)。私は縁があって、DAY 1から大関さんと一緒で、最後も同じ部署だったんですよね。


大野俊也 そうだったんですね。


小沢暁子 それで’93年に、「クラブ回りさせてください」って言って、自分から進んでクラブ回りを再開させるわけです。


大野俊也 クラブ回りという仕事があったんですか?


小沢暁子 ないです(笑)。大関さんのバイト時代はクラブ・プロモーションというのがあって。ディスコ、クラブを全部回って、白盤を2枚ずつDJに渡すというのを毎日毎日、夜にやってたわけですよ。でも社員になるとさすがにそれはやらなくて。でも、大関さんはDJにかけてもらうためにレコードを2枚渡して、「一緒に盛り上げましょうよ」って言って、どんどんネットワークを作っていくわけです。「クラブ・プロモーション」というメニューは、当時どこの会社もなかったと思います。大関さんがパイオニアですよね。でも普通の宣伝業務もあるし、いろいろ手が回らなくなって、dj hondaの事務所から白根ちゃん(白根夕子)を連れてくるんです。


松田敦子 白根さんって、hondaさんの事務所にいたんですか?


大野俊也 確か、ジョン・ロビンソンもいた事務所(FAST FORWARD)にいたんじゃないですか。プロモーションをした時は、どういうヒップホップのネタがあったんですか? Tommy Boyですか?


小沢暁子 Tommy Boyです。デ・ラ・ソウル、デジタル・アンダーグラウンドもいたし、ハウス・オブ・ペインの「Jump Around」はまさにスーパー・クラブヒットですよ。


朝倉 “jun” 崇光 Fineナイトでもめちゃかかってましたよね。


小沢暁子 当時のソニーはColumbia以外にも、Def Jam、Tommy Boyがあったから、ヒップホップはめちゃくちゃ強かったんです。あと、Columbiaはサイプレス・ヒルがいて。それで、’92年は「Jump Around」の後に、クリス・クロスの「Jump」が大ヒットしたんです。


大塚陽子 服を逆に着る子たちだよね(笑)。


小沢暁子 そのクリス・クロスのヒットで始まったんです。その時に「イベントをやっちゃう?」てなって。『Totally Krossed Out』で着てたのは野球の服だから、東京ドームを貸し切って、みんなで野球をするというプロモーション施策をしたんです。当時はバブルだったから。


大塚陽子 豪華なプロモーションだね。


小沢暁子 新人アーティストの宣伝イベントだと、あまり人が来ない可能性があるわけですよ。でも、東京ドームで野球やりませんか?って言うと、みんなが来てくれる。それで来るとずっと曲がかかってるから、曲を覚えるんです。ソニーのやり方はいつもそう(笑)。


大野俊也 それは大関さんのアイデア?


小沢暁子 大関さんの上司だと思います。Tommy Boyはその上司の管轄で、後に大関さんをディレクターとして抜擢したんだと思います。ヒップホップ・チームを作って、別室の制作付きのマーケティングみたいな感じで、大関さんはやり始めたんです。確かヒップホップ・チーム初期のヒットがノーティ・バイ・ネイチャーで、その後にサイプレス・ヒルがヒットして。ノーティ・バイ・ネイチャーの時なんて、800枚ぐらいから始まるんですけど、8000枚まで売れて。最終的には2万枚ぐらいまで売れました。でも会社として売れた手応えがなかったのは、売れたほとんどは輸入盤だったからで。ヒットさせても、並行輸入での売り上げが多いので、「だからヒップホップは売れない」って言われて。まあ普通、国内盤3,150円と輸入盤1,980円だったら、1,980円の方を買うと思うから。歌詞カードは要らないと。


大塚陽子 対訳しずらいから(笑)。


大野俊也 ヒップホップが好きな子は、まず渋谷のレコード屋で買うっていうパターンが、出来上がってましたからね。


House of Pain - Jump Around


Kris Kross - Jump


Cypress Hill - Insane In The Brain


Naughty by Nature - Hip Hop Hooray



’90年代に日本でヒップホップを売った大関さん


小沢暁子 そこから、大関さんの上司はマライア・キャリーを担当することになって。大関さんもディレクターとしてどんどんロースターが増えていったんです。大関さんがいなかったら、ヒップホップ・アーティストがあれほどリリースされることはなかったと思いますね。ヒップホップに関しては、会社は初めは様子見だったので。当時はヒップホップがここまで大きくなるとは誰も思ってなかったから、会社の人も全然斜め下に見てて。でも大関さんは、前作が2000枚しか売れてなくても、初回のイニシャルで「5000枚!」って言うんです。


大野俊也 その自信の裏付けはあったんですか?


小沢暁子 自信じゃなくて、「ヒップホップっていうのはそういうものなんです。みなさんの認識が間違ってるんです」って言って、大関さんは通してましたね。当時のA&Rというのは、30~40歳の人がやってるわけですよ。20代のA&Rというと、大関さんとジャック天野さんがいたぐらいで。新しい世代のA&Rとしては、「新しい時代がすぐそこに来てるんです」っていう、青年の主張みたいなものがあったんです。それは私たちも肌感覚としてはわかってるもので。


大野俊也 ’90年代は時代の大きな変わり目でしたからね。


小沢暁子 少し上の世代は、ニルヴァーナやパール・ジャムですら理解できなかったんです。ブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエルとか、大きく売れるものから徐々に時代が変わっていって。カレッジやコミュニティからスタートしたり、地方都市から出たり、もう全然違うジェネレーションが支えるスターというものが、パンク以外からも出てきたじゃないですか。だから、「若い世代を背負っていく」という気持ちはあったと思うんですよ。「対立は上等。全然負けないし」みたいな。私は中抜けで’96~’97年にNYに行って、帰国後また制作チームに加わるわけですが、だからその当時に大関さんが受けてきた圧もわかるんです。


大野俊也 ’90年代に大関さんとNYでよく会うようになった頃は、Relativity Recordsとdj hondaを手がけてましたよね。NYでビートナッツを取材した時は、Relativityのピーター・カンもいて。ピーターは大関さんと組むことになりましたよね。その辺はどのような経緯で始まったんですか?


朝倉 “jun” 崇光 ITFの主宰や、DJキューバートとかDJショートカットのマネージメントをしてるアレックスという方がいて。その妹がRelativityにいたからだと思います。


目黒敦 ロキシー・アキーノ。


朝倉 “jun” 崇光 そう! ロキシーがピーター・カンをつなげたんじゃないかと思います。


目黒敦 Relativityはソニーのサブレーベルみたいなもので、そこに営業部隊がいたんですよ。ソニーのメインの営業とは別に、インディ・ ディストリビューションを持っていたんです。でも、dj hondaさんと大関さんとRelativityがつながったのは?


大野俊也 当時、NYでニュー・ミュージック・セミナーというヒップホップのコンベンションを毎年やってて。そこのDJバトルで、’92年にdj hondaが世界2位になったんですよ。その時、僕はDJ YUTAKAと一緒に見てて。DJ YUTAKAとdj hondaが一緒にやることになったのは、そこが最初の始まりじゃないですか。


朝倉 “jun” 崇光 その時、僕はLAでハウスのDJをやってたんですよ。YUTAKAさんとは同じパーティにブッキングされて。それでYUTAKAさんのお手伝いをすることになったんですけど、hondaさんがアメリカに来るってYUTAKAさんに言われて。「hondaはアメリカ慣れしてないから、おまえが面倒を見てやってくれよ」って。’93年ぐらいだと思います。


大野俊也 思い出した! よくLAで会ったよね。


朝倉 “jun” 崇光 LAでFineナイトもやりましたよね。それこそ大野さんと最初に会ったのは、六本木のEROSでやってたFineナイトですよ。


小沢暁子 アルバム『dj honda』が最初で、アメリカでのリリース先を探してたんですよ。ColumbiaにもEPICにもそれをやるA&Rがいなくて。ピーター・カンがやってくれるという話になって、そこから、赤い『dj honda』を白い『dj honda』にして、アメリカではRelativityから出したんだと思います。そこからアーチー(目黒敦)の時代に突入するんだよね。


目黒敦 僕はソニーの駐在員として’96年にNYに行って。dj hondaをやることになった時に、僕は契約をやってたんです。ラッパーには銀行口座がないから、大関さんがデッカいカバンに現金を束で入れて、会社から持ってくるんですよ。僕のオフィスにそれをドーンと入れて、小さな鍵をかけるんです。


小沢暁子 NY出張の時は、いつもヨックモックの細い缶に100ドル札をピッタリ入れて持って行っていました。一人で持ち込める限度額があるので、何人かで散らして持っていくわけですよ。それを全部アーチーのところに金庫に入れてました。


目黒敦 ラッパーは先に払うと仕事をしないから、僕は会社で待ってて。終わった時に来てほしいと言われて。怖いところにあるスタジオに現金の束と契約書を持って、サインをさせてから、ハイって現金を渡して帰るんです。


大塚陽子 怖い(笑)。


小沢暁子 大関さんが現金を持ってたら強盗できそうだけど、アーチーだと襲っても逆に負けそうだから(笑)。アーチーが来てくれるのは安心だった。


The Beatnuts - Props Over Here



dj hondaの1stアルバム


大野俊也 dj hondaの1stアルバムは、’95年のリリースなんですね。


小沢暁子 アメリカでレコーディングして。やりたい人をラッパーとかからつないでもらって。当時の渉外担当の子が、大関さんの意向を全部生かす形で、hondaさんの仕事をやってましたね。


大野俊也 僕が当時のことでスゴく覚えてるのは、NYで大関さんがYUTAKAとhondaくんに詰められて、僕と大関さんの二人だけがその場に残ったことがあって。「ビリー・ジョエルに憧れて、この世界に入ったんですよ。今僕はNYに仕事で来てるんですけど……」って言ったんですよね。あれはずっと覚えてますね。


朝倉 “jun” 崇光 hondaさんは、大関さんがアメリカにビリー・ジョエルの仕事とかで来てると、「おまえ何でこっちにも寄らないんだよ」っておっしゃってましたね。hondaさんはあまり言葉にはしないけど、大関さんのことが好きだったんだと思います。


大野俊也 dj hondaはDJ YUTAKAと一緒にいたLAを離れて、NYに移りましたよね。そこはどんな感じだったんですか?


朝倉 “jun” 崇光 hondaさんがNYで音楽制作をすることを決めて。僕がhondaさんにくっついて、NYに引っ越しさせていただくことになったんですが、今でも覚えているのが、「jun、おまえもNYに行くのか?」とYUTAKAさんがおっしゃって。その時点で僕は5年間LAに住んでて、東海岸にも行ってみたいと思い、「NYにも行ってみたい」みたいな返事をさせていただいたと思うのですが、YUTAKAさんからすると、「元々おまえは俺の舎弟」みたいな感じだったのか、「何でhondaに付いて行くんだ?」と揉めたことがありまして。hondaさんから「junはモノじゃない」みたいなことを言っていただき、NYに行くことになりました。お二人は覚えてないとは思いますが。今でもお二人のことを超リスペクトしています。NYでは3年間hondaさんの手となり足となり、レコーディングやツアーなどで世界各国を周り、普通ではできない経験をさせていただきました。


小沢暁子 その時の大関さんはずっと出張しっぱなしで。NYとかLAで制作をするから、普通に1ヶ月とか日本にいなかったんですよ。それを許したのは当時の部長で。SMA出身の人だったから、「レコーディングなんてそういうものだよ」って言ってくれて。それがあったからできたんだと思います。大関さんが海外にいる分、国内のマーケティングは基本、私の担当でしたね。大関さんは、「ヒップホップをもっと若い女の子たちにも聴いてもらわなきゃいけないんだよ」って、イメージだけで言うんですよ。でもhondaさんは、「そんなものは要らないから」って言って。そこから大関さんは、「イケてる若者には呼ばれた方がいいからさ」って。雑誌のananとOliveでページを獲ってきてくれって言うんですよ。私がページを確保すると、hondaさんに「こんなにヤバいことになってるんだ。最高のアルバムだよ。だからさ、やってくれる?」って。


大野俊也 dj hondaのアルバムはそうやって売ったんですか?


小沢暁子 そういうことです。「普通にクラブヒットはさせる。でも、顔を出さない。帽子だけにフォーカスを当てた写真で、「h」のマークだけ行けばいいから」、「シンボリック、アイコニックなイメージが伝わればいい」って言うんです。その上で私は大関さんの希望をブッキングするわけですよ。でも女性誌からは、「素顔を見せてください」って言われるに決まってるじゃないですか。それで、ソフトフォーカスにしたり、後ろから撮ったり、顔を映さないような写真にするのに必死でしたね。


朝倉 “jun” 崇光 「h」のキャップの最初のサンプルは僕が作ったと思います。LAにいた時はYUTAKAさん、hondaさんのお手伝いで、RHYME SYNDICATE、ASAP PRODUCTIONS、その後は「h」と、たくさんのグッズを作りました。最初はサウスセントラルのSlauson Swap Meetという、お客さんがギャングだらけのお店で、10個単位の少量で作ってましたが、「h」キャップの人気が出まくってしまい、電話帳で帽子のボディ屋や刺繍屋に電話して交渉し、大量生産しました。まだインターネットが普及してなくて、電話帳で探したのを覚えてます。


小沢暁子 「h」のロゴに関しては、大関さんは「僕がデザインしたんだよ」って言ってましたね。あれは小文字の「h」にしたのが大きかったみたいで。文字校正をする時も、全部小文字で「dj honda」にしてくださいって言われて。「これがアイデンティティなので」って言うんですよ。だから、新聞に大文字で「DJ HONDA」って出ちゃった時は怒られましたね。


朝倉 “jun” 崇光 「h」のロゴは、「オールドイングリッシュのフォントを少し縦に伸ばした」と大関さんがおっしゃってて、こだわりを感じましたね。グッズを作る時も、ちゃんと指示をしないと、普通のオールドイングリッシュの「h」キャップが出来上がるので、何個もダメ出しをしてました。


大野俊也 「h」の帽子はイチローがかぶってバズりましたよね。


朝倉 “jun” 崇光 イチロー選手が、当時からウータン・クランの服を着たり、ヒップホップがお好きで、dj hondaファンでもあると聞き、当時オリックス球団に送らせていただきました。


小沢暁子 帽子が出始めたのが’95年で。帽子とともに知名度が上がったんです。それもアメリカ進出の説得材料になったと思います。


松田敦子 今でもあの帽子をかぶってる人を見かけますよ。


大野俊也 dj hondaはNYのルーズヴェルト・アイランドに住んで制作をしてましたよね。


朝倉 “jun” 崇光 アーチーさんが借りてくれた高層マンションで、イーストリバーが下に流れてましたね。



dj honda『h II』


大野俊也 大関さんはdj hondaのアルバムを何枚手がけたんですか?


小沢暁子 3枚です。


目黒敦 『h II』の時が一番濃かったですね。レコーディングもやったし、現金も運んだ(笑)。プロモーションビデオもやりました。モス・デフとか。


小沢暁子 『ゴッドファーザー』が『h』だとすると、『ゴッドファーザー PART II』が『h II』なわけです。そもそも『ゴッドファーザー』があそこまで当たるとは誰も思ってなかったわけで。


大野俊也 どれくらい売れたんですか?


小沢暁子 当時、日本で5万枚くらい。原盤制作だったので、それもあって『h II』に打って出れたんです。『ゴッドファーザー PART II』のように、乗りに乗って、予算もあって、ある程度のレピュテーションも上がって。アメリカのラッパーの人たちとも対等に仕事ができるようになったし、バンバン仕掛けられるわけです。アーチーが濃かったって言うように、あれが一番面白かったです。


目黒敦 面白かったね。ビデオもギャラの高いディレクターを起用できて。「On the Mic」とかは思い出深いですね。Cuban Link、Juju,、A.L、Missin' Linx(Al'Tariq、Problemz、Black Attack)とかも呼んで。ビートナッツの別の曲もビデオを作りました。


dj honda - On the Mic feat. Cuban Link, Juju, A.L, Missin' Linx (Al'Tariq, Problemz, Black Attack)


大野俊也 『h II』では、大関さんはどのような施策をしたんですか?


小沢暁子 もうイケイケでしたね。あの時代はインターネットはあるけど今のように使える環境でもないし、ラジオでかけるしかなくて。当時は携帯も全員が持ってるわけじゃないから、マーケティングツールとしてのSNSは当然なかったんですよ。だから、HOT 97とかVH1とかのヒップホップの番組に、レコード会社が普通に電話をかけてプロモーションやってた時代で。


大塚陽子 それをアーチーがやってたの? スゴいね!


小沢暁子 アーチーが全部やってました。ライヴのブッキングが大変だったよね。ベニューを決めて、ブッキングをして。


目黒敦 その時に、レコード会社で事務所をやるのは無理だよってなって。


小沢暁子 マーケティングは私もいるし、契約周りのBA(Business Affairs)はアーチーがいる。エージェント、ツアーのブッキングはアーチーがやるとしても、マネージメント業務はもう我々ではできませんという話になって。


目黒敦 そこで奥田民生のマネージメントの大ベテランを投入するんです。


小沢暁子 元SMAの会長、原田さんです。その後にアーチーはカートゥーン・ネットワークでPUFFYのアニメ番組を作って、PUFFYも売れたんですよ。


目黒敦 NY時代の大関さんと一番近かったjunくんのViewを聞かせてよ。


朝倉 “jun” 崇光 大関さんは1年中NYにいて。よくhondaさんと酒を飲んでましたね(笑)。大関さんは気が利くんですよ。人のことをちゃんと良くしてあげようと考えてました。


小沢暁子 誰にでもリスペクトがあるんですよ。年下とか関係ないもんね。


朝倉 “jun” 崇光 みんなのことを大好きで、みんなから好かれてました。


目黒敦 でも、dj hondaにLOVEだったよね。


小沢暁子 そうなんですよ。hondaさんは同級生だからぶつかることもあったけど。


朝倉 “jun” 崇光 あそこまでhondaさんのことを考えるA&Rはいないですからね。


小沢暁子 よく説得してましたね。普通だったら嫌になるけど、全然へこたれないで話してました。


大野俊也 大関さんにはへこたれないイメージがあるなあ。


小沢暁子 hondaさんも「大関が言うからさ」っていう言い訳が欲しかったんじゃないですか。


大野俊也 大関さんの制作の関わり方はどうだったんですか?


朝倉 “jun” 崇光 とにかく周りにブレーンを集めますね。友達が友達を呼ぶというか。ビートナッツが若いヤツを連れてきたり。


小沢暁子 大関さんは口説き落とすのが上手なのね。一言で相手を落とすような、刺すような言葉がスゴく上手で。例えば、dj hondaをわからない人に、「hondaさんって何がスゴいんですか?」って聞かれた時に、「もちろんテクニックも全然スゴいんですよ。でも一つだけ言うとすると、あいつのビートには誰も勝てないんですよ」って言ってたのが秀逸で。そう言われたら、誰でも次からビートを意識して聴いちゃうわけですよ。でも大げさに言ってるわけじゃなくて、それがhondaさんの特性であり、特筆すべき素晴らしいポイントだったりするんです。本当に良いA&Rだったなと思うのは、本人に対しても正面切って全肯定なところで。「君のビートはスゴいんだよ」って言ってしまったら、圧倒的な自信につながるわけですよ。信頼関係とか評価とかいろいろあると思うけど、あれは大関さんだなって感じがする。


大野俊也 『h II』はどれくらい売れたんですか?


小沢暁子 アメリカであの時代に10万枚ぐらい売れてるんですよ。SNSがない時代に、アメリカで10万枚なんてまずないことで。あれはやっぱり良いものを作ったということ、その界隈でちゃんと信用が築けてたということ、そういうものスゴい正当で地道なことをやったことの成果だと思うんです。あとはNYオフィスにアーチーがいたおかげで、ライヴがものスゴく売れたんですよ。


大野俊也 ライヴはどこでやったんですか?


目黒敦 アメリカ全土。ヨーロッパにも行きました。あの当時はライヴをやってナンボのものだったので。PUFFYの時も最初はバスに乗せてツアーに出たんです。そういうのをやって少しずつ積み上げていきましたね。hondaさんとも車でいろんなところに行きしました。


朝倉 “jun” 崇光 Black Attackがよく一緒に来てましたよね。hondaさんは各地でスクラッチのショーを見せて、お客さんが食い入るようにプレイを見てたのを覚えてます。


目黒敦 「その技術を見せてくれ」って感じで、みんな集まって、ウワーってなるんです。カナダの田舎とか、どこにでも行きましたね。プロモーターが金を払わないで逃げたこともありました。26~27歳の僕は面白い経験をいっぱいさせてもらいましたよ。『h II』では思い切りやったと思いますね。アメリカで売れるというのもそうだけど、それを日本にフィードバックさせるというのも大きなポイントだったので。



フージーズ『The Score』

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フージーズ


大野俊也 大関さんが担当していた洋楽の仕事についても聞きたいです。


小沢暁子 いろいろありますね。フージーズは最初「フュージーズ」って言ってて(笑)。「どうやらアメリカでは “フュージーズ” って呼ばれてないらしい」ってことになり、2ndアルバムから「フージーズ」に変わったんです(笑)。ナズ(NAS)も最初は「ナス」でした(笑)。’90年代中盤はdj hondaとは別で、同時進行でやってたアーティストがいくつかあって。その時のアメリカはヒップホップがかなり盛り上がってきてて。それまでにもチャートを登り詰めてトップまで行くというのはあったんですけど、サイプレス・ヒルの『Black Sunday』のように、初登場1位が次々と出てくるんですよ。そういう時代になった時に、会社でも「大関くんの言ってたこともまんざら嘘じゃないな」ってなって。大関さんが「イニシャル5000枚!」って言ってたのが、「本当にそういうことなのかもしれない」ってなってきたんですよ。


目黒敦 大関さんは時代を先取りしてたというイメージだよね。その当時の大関さんのイメージはあります?


松田敦子 よくクラブに来る人というイメージがありましたね。他のレーベルの洋楽担当者だと、ワーナーの小野さんやユニバーサルの宙さんぐらいしかいなかったので。大関さんには現場主義のイメージがありますね。それを大関さんスタイルでやってたと思うし。仕事だけじゃなく、夜飲みに行って仲良くなったりとかもそうだし。アーティストと仲がいいイメージもあって。裏原やギャルブランドなどのアパレル・ブランドとコラボをしてたイメージもありますね。


大野俊也 グラフィティ・ライターを起用して、ヒップホップのコンピ盤(『FAT JAM』)を出してたイメージもありますね。


小沢暁子 大関さんは、英語の歌詞で歌えるように、カタカナ歌詞にしたコンピをリリースしたことがありました。大関さんが全部聴き取って、「Jump Around」の歌詞も「パケラ、パケリン、レミビギ」みたいにカタカナ化するわけ。大変だったのは、ADさんたちで、校正の時には大関さんの手書きの「パケラ、パケリン、レミビギ」という意味のなさないものを、1文字、1文字確認しなくちゃいけなくて(笑)。でも、それがものスゴい話題になったんですよ。いろいろなところで、「史上初のカタカナ歌詞付き」、「このCDを持ってると歌える」みたいな(笑)。でもヒップホップは時代的にまだカラオケには入ってなくて。そういうことをずっとやってるわけです。


大野俊也 とにかくヒップホップを浸透させようとしてたわけですね。


大塚陽子 アイデアマンでしたよね。


小沢暁子 「Jump! Jump!」も「ジャンプ! ジャンプ!」じゃなくて、「ジョン! ジョン!」ですから(笑)。


朝倉 “jun” 崇光 聴こえ方だ。




VOL. 2に続く。

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