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故・大関孝紀さん(ソニー・ミュージックエンタテインメント)が日本の音楽業界、日本のヒップホップ・シーンに残した偉大な功績 VOL.2

2025年5月12日に永眠したソニーの名プロデューサー、大関孝紀さん。

大関さんはDef Jam、Tommy Boy、Relativity、Loudといったアメリカのヒップホップ・レーベルの楽曲を日本でヒットさせ、dj honda、ローリン・ヒルなど数多くのアーティストを世に送り出した人物である。これは1990年代、日本の音楽業界でヒップホップが売れるとか、定着するとかいったイメージをまだできていなかった頃から始まる話。何の前例もなかったその時代に、ソニーという大きな組織の中で、大関さんはヒップホップを信じ、アーティストを信じて、新しい道を切り開いていった。今回この記事を作った理由は、大関さんの追悼という意味合いもあるが、大関さんの偉大な功績を残し、伝えていきたいという気持ちの方が大きい。当時の大関さんとともに仕事をし、大関さんをよく知る、小沢暁子、目黒敦、大塚陽子、朝倉 “jun” 崇光、松田敦子、大野俊也(以上、敬称略)の6人による対談という形で、VOL.1に引き続き、VOL.2を掲載します。


Photo: ローリン・ヒルとのオフショット



■対談参加者の紹介


小沢暁子

SME洋楽制作本部ソニーレーベルで大関さんの後輩として、ともに宣伝を担当。1990年半ばにNY留学、帰国後SMEJインターナショナルで制作を担当。2000年代後半からソニーミュージックパブリッシングとSME HQマーケティングルームで洋楽を担当。2014年から5年間SME NYオフィス駐在。帰国後はSMEコーポレートビジネスマーケティンググループに在籍。本部署で久しぶりに大関さんと机を並べていた。


目黒敦(Archie Meguro)

1991年(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント入社。1996年よりSMEJのNYオフィス駐在。様々な邦楽アーティストの海外展開を担当。その中でdj hondaに関しては大関さんの参謀役(契約、レコーディング、現地レーベルなど)。2011年より現在、ウォルト・ディズニー・ジャパン(株)バイスプレジデント。ディズニーの音楽、ライヴ、キャラクターボイス、キャスティング担当役員。


朝倉 “jun” 崇光

1991年からLAで大学に通いながら、DJを行う。ASAP Productions、dj honda recordingsでアシスタント業務。帰国後、大関さんの紹介で、Sony Music Japan Internationalにて宣伝、制作を担当。現在、株式会社ドワンゴでニコニコ生放送の番組制作を担当。


大塚陽子

2000年に(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント入社。Sony Music Japan International在籍時、制作部門で大関さんの部下としてダンスミュージックを中心に様々なジャンルを担当。現在、SME / The Orchard Japanレーベルサービスチーム、セールス&マーケティングルームにてセールス業務及び洋楽担当。


松田敦子

PR / マインドフルネス瞑想講師 / 禅療法士。NY在住時代に大関さんとよく顔を合わせ、帰国後はオマリオンのPRなど仕事の交流もあり、飲み仲間でもあった。


大野俊也

編集者。Fine、WARP、FLJといった雑誌で編集長を務める。大関さんとは’90年代~2000年代は東京、NYの現場で一緒になることが多かった。



Fugees - Nappy Heads



フージーズのヒット


大野俊也 フージーズ、ローリン・ヒルはどうやって売ったんですか?


小沢暁子 「Nappy Heads」(1994年)の頃に、ようやく会社的にもやるかって空気になったんです。アルバム『The Score』が出る前のことで。「クラブヒットはしてて、キテます」という話だったけど、セールスはまだ2~3万枚ぐらいで。『The Score』(1996年)も1800枚くらいからのスタートだったんです。


大塚陽子 そうなんだ?! 信じられない。


大野俊也 ’96年と言うと、さんピンCAMPもあった年だし、日本語ラップもかなり盛り上がってきていて、ヒップホップ的には機も熟してきた感じだったと思いますけど。


小沢暁子 でも、大ヒットはなかったんです。最初はアーバン系だったマライア・キャリーとか、MCハマー、ボビー・ブラウンのような売れ方をしていく人たちもいたけど、リアルなヒップホップにいる人たちをどうやって売るのかということを、大関さんはやってたと思うんですよ。


大野俊也 まだまだヒップホップは別ものだったんですね。


小沢暁子 大関さんは二つを同時にやりたかったんです。絶対にわかりやすいヒット曲を出してあげたいということ。もう一つはマーケットやファンベースを作って、ボトムアップをするということ。その二つを絶対にやりたかったんですよ。


朝倉 “jun” 崇光 ジャンルとしてのヒップホップをね。


小沢暁子 だから、ノーティ・バイ・ネイチャー、ONYX、サイプレス・ヒル、ハウス・オブ・ペインとか、あの辺はベースを作って、ヒット曲でボトムを上げますというところなんです。フージーズは元々ボトムアップのアーティストだったけど、アルバム『The Score』には、スターになってジャンルを引っ張っていく、パワフルな顔になるかもしれないというところがあったんですよ。’96年にやっと日本で、「Nappy Heads」、「Fu-Gee-La」が流行ってきて。その時に一番仕掛けたこととして、Tommy Boyのクーリオをまずスターにしたんですよね。売ったのは曲とキャラクターで。私は月イチで出してたソニーの宣伝盤『Hit’s a Sony』で、クーリオの絵を描きましたから。


大塚陽子 NOT FOR SALEのコンピ盤だよね。


小沢暁子 初めての黒人ヒップホップ・アーティストで、私の絵でカバーを獲ったんです(笑)。


目黒敦 あれはいまだに伝説の絵だよ。


小沢暁子 そしたら大関さんが、「これの人形を作りたいんだよ」って言ってきて。それで人形を作ったんだけど、大関さんは「クーリオの宣伝費、この人形で全部使っちゃったんだよ」って(笑)。「人形はいくつ作ったんですか?」って聞いたら、「300個」、「え、そんなに作ったの?」って。「これね、型代に100万円かかるんだよ。だからたくさん作って元を取らないと」って(笑)。でも、クーリオの「Gangsta's Paradise」はビルボードで年間の1位を獲ったんです。その後は、「恋の呪文は1234」、「C U When U Get There」がヒットして。大関さんは、ラジオチームのヘッドに、「これ、ラジオヒットさせたいんだよね。邦題をつけてくれる?」って言って。「AMラジオでノリがいいような邦題をつけてくれない?」って言ったら、「恋の呪文は1234」という邦題になったんです。



クーリオのLA取材時 1997年6月

Image


Coolio - Gangsta's Paradise (feat. L.V.)


大塚陽子 原題は何だっけ?


小沢暁子 「1, 2, 3, 4」(笑)。でもそれがAMラジオでヒットするわけですよ。「今の時代にはないかもしれないけど、こういう邦題をつけちゃいました。これ、AMヒットだけを狙ってやってるんですよ」ってラジオ局に言うんですけど、そしたらみんな心が動くでしょ。


目黒敦 それってソニーのカルチャーというか。「Bridge Over Troubled Water」の邦題が「明日に架ける橋」とか、「Girls Just Want to Have Fun」の邦題が「ハイ・スクールはダンステリア」とか。そういう洋楽マンの先輩たちがやってきたことを、引っ張ってきた感じなんですよ。そうしないと伝わらないじゃんって。


小沢暁子 でもそれはたぶん大関さんがビリー・ジョエル好きだからですよ。「あの娘にアタック」(原題:「Tell Her About It」)とか。ビリー・ジョエルを聴いてる限り、やっぱり邦題って大事だよって思っちゃうの。


目黒敦 「素顔のままで」(原題:Just the Way You Are)とか。


小沢暁子 フージーズに話を戻すと、当時のヒップホップは、まだ一般の人たちからすると全く興味のなかったところなんですよ。でもフージーズは、『The Score』がアメリカではスゴいことになって、絶対に行くってなってて。「Killing Me Softly」で大ヒットしちゃうんです。その時にRolling Stoneの表紙にもなって。その後にヒットした「Ready or Not」のMVなんて、何千万円もかけて作ってるんです。その前に取材をしてるんですけど、大関さんはいつものパターンで、「フージーズという存在は、日本ではまだまだだけど、世界を引っ張ってくれるような人になると思うんだよね」というのをずっと話してるんですよ。それでHideo Oidaさんのスタジオで撮影をして、その時に三人の写真をふんだんに撮っておいたので、マーケティングで使い続けることができたんです。そこからフージーズはどんどん売れていくわけですよ。どんどん売れていくし、来日もするんだけど、売れる前にちゃんと三人の取材をしてるし、三人と大関さんはしっかりつながってるから。その時点で、もう大関さんは「Taka」って呼ばれてるの。「三人の取材、撮影をいっぱいやって。日本でいっぱい露出して。絶対に売ります。流行らせます」って言って。最終的に、30万枚ぐらい売れるわけです。でもそのうちの18万枚ぐらいが並行輸入で、国内盤だと12万枚ぐらいしか売れてないわけです。12万枚でも立派な数字なんだけどね。それで、Oidaさんのスタジオで撮ってるてなった時に、大関さんから「次の出張でおみやげに絵を持っていきたいんだよ。三人の絵を描いてくれよ」って言われて。


大塚陽子 さっきのクーリオ・タッチでね(笑)。


小沢暁子 何故かって言うと、「スタッフがこんな絵を描いちゃってる。それぐらい日本のチームは大好きなんだ」っていうのを見せたくて。ダシに使われてるんですよ。それで描いたら、「困ったよ。喧嘩になっちゃったんだよー」って。


大塚陽子 原画が1枚しかないから?


小沢暁子 「絵をちぎるのかって話になって。「後で考えよう」ってローリンが言ったんだけどさ。ワイクリフが持ってっちゃったんだ。それで喧嘩になっちゃったんだよ」って言われて。でも、それは次の話のダシで。「喧嘩になると困るからさ。ローリン一人の絵を描いてくれない?」って言われて。ローリンの絵を描きましたよ。それで’97年には、ローリンのソロが’98年に出るという話になるんです。『The Score』の最後の方からキャンペーンが始まって。そこで「ローリンを売るぞ」ってなって。編成会議に乗せる時に、「僕が100万枚売ります!」って言って。「ローリンと100万枚売る約束をしたので、イニシャルは10万枚にします」って。


大野俊也 それって破格なんですか?


目黒敦 あり得ない数字ですよ。



小沢暁子の描いたローリン・ヒルの絵

Image



ローリン・ヒル『ミスエデュケーション』


小沢暁子 ローリンはグループから独立してのソロだから、新人扱いなんですよ。ソロだと普通、グループよりも枚数が落ちるんです。なので会議では、「大関、いつも言ってるじゃん。そのイニシャルはないよね」って。その時の営業からの説教は今でも覚えてますよ。「通常は前作のアルバムの半分だよな。しかも前と同じメンツで、もっといいものを作ってくるという前提だろ。元にする数字が国内盤の半分だと5万枚だろ。でも5万枚は行かないよ。1万2000枚だな」って。それがスゴくショックで。さぞかしがっかりしてるだろうなと思って、大関さんのところに行ったら、「まあ、ああいう風に来るよね。でも大丈夫! 10万枚積むから」って。「僕だって落ち込むよ。でもローリンと約束したから、落ち込んでる場合じゃないんだよ。10万枚からスタートしないと、100万枚売れないんだよ」って言って。それで本当に獲っちゃうんですよ。


朝倉 “jun” 崇光 超カッコいいですね。


大塚陽子 RED HOTのCM(ソニーのアルカリ乾電池「スタミナ」のCM)はその後? ローリン・ヒルが日本のCMに出てるっていうのは衝撃だったな。



小沢暁子 いや、もうすでに決めてたの。ソニーのCM担当の方には、「ローリン・ヒルは素晴らしい人で、日本で100万枚売れます。グラミー賞も総なめします。だからソニーでやっていただいた方がいいと思います。どうですか?」って言ったら、「そんなに素晴らしいんですか? やりますよ」って。それでCMは決まったものの、受注の時にはまだ情報解禁前だから受注先のレコード店には情報は一切出せなくて。でもこの頃になると、社内のみんなには期待感しかないわけですよ。販促の子たちもみんなそうで。絶対に売れるし、こんなのができたら最高という話になってて。それで大関さんは札幌から福岡まで行脚するわけです。営業の子たちには「CMが始まるから、大丈夫だから積んじゃって」、「はい、積みます!」って。受注期間は3~4週間で、で、上がってきた数字が8万枚を超えてたんですよ。


全員 拍手


朝倉 “jun” 崇光 やっぱり現場はわかってる。


小沢暁子 ボーナストラックも入った国内盤に8万枚ついて、ボーナストラックのない輸入盤に1万5000枚ついてるから、10万枚のスタートになったんです。それでバンバン売れるわけです。初来日もしたし、ローリンとはそれまでに何回も会ってるから、仲良くなって。フージーズが売れる前夜にやって、売れた後にやって、ソロの取材もやって、CMを2回やって、ローリンのアーティスト写真も日本用に撮って。


松田敦子 日本用に撮ってるのがスゴいね。


小沢暁子 それは私たちがずっとやってきたことなんです。写真は待っていればアメリカのソニーからもらえるけれど、アメリカと好みのテイストが違ったりで、マーケティング的に日本では使えないものが多いから。お金はかかるんですけど、肝になるのは写真だったんですよ。


朝倉 “jun” 崇光 写真はあればあるだけ良くて。「うちだけの写真をください」って、雑誌社はみんな言うわけですよ。エクスクルーシヴが欲しいから。けっこう大事なんですよ。

小沢暁子 100万枚くらい売れるっていうアーティストは、他にもいるわけですよ。マライア・キャリー、セリーヌ・ディオン、エアロスミス、オアシスとかもいるんだけど、「ローリン・ヒルで100万枚売る」っていうのは、私たちにとっての未来でしかなかったんです。


大野俊也 100万枚売ったんですか?!


小沢暁子 もっともっと売れてますよ。半年で120万枚だったので。


朝倉 “jun” 崇光 みんな聴いてましたからね。うちのかみさんも買ってたから。普段洋楽を聴かない人もみんな買ってた。


小沢暁子 それもヒップホップの売れ方と一緒なんですよ。文化とか信念とともに売るっていう。ただのヒット曲だけでは終わらせないというのは、実は大関さんと私たちの中ではスゴいあって。「この人ってこんなに素晴らしいんだよ」っていうところを、プロモーション・チームは出してたんです。単なる流行りものじゃなく、カルチャーがあって、コミュニティがあって、これは何故ライフスタイルなのかというのを説明して。当時、ヒップホップにはオールドスクールがいて、ニュースクールがいて、その中でヒップホップのオルタナティヴと蔑まされてたフージーズがいたんです。女性がラップをやって、クイーン・ラティファのような存在でもないし、アイドルっぽい感じなのかって言われてて。Rolling StoneかSOURCEのインタビューだったと思うんですけど、当時蔑まされすぎて、「私たちはこんなもんじゃない」って泣きながらやってたと話してるんです。「だからと言って、売れたから調子に乗るんじゃなくて」とも言ってて。そこからローリンは『ミスエデュケーション』を出して、グラミーまで行くんですけど、大関さんはそうなると信じて、その通りのストーリーを出してるわけです。ある時、大関さんはある音楽誌に話を持って行ったことがあって。「「大関さん、わかるんだけどさ、ヒップホップには物語がないんだよね」って言われちゃったんだよ」って言ってて。でも、その時の反応が面白くて。「笑っちゃうでしょ。一番恥ずかしいことを言ったんだよ。だって、一番物語があるのがヒップホップだっていうのがわかってないんだから。そういう界隈でやってるから、小沢はダメなんだ」って言われたんですよ。


朝倉 “jun” 崇光 小沢は関係ないじゃん(笑)。


小沢暁子 そう、関係ないの(笑)。でもその時に、「パブリック・エネミー……公共の敵だよ!」って言って。


朝倉 “jun” 崇光 直訳(笑)。


小沢暁子 「物語がないって言われて、要らないなと思っちゃった」って。そこで割り切ってしまう強さが大関さんにはあったなと思って。


大野俊也 大関さんがローリン・ヒルにめちゃくちゃ信頼されていたエピソードがありますよ。2007年にSPRINGROOVE 07というヒップホップ・フェスの主催に関わってたんですけど、ローリン・ヒルが出演したんですよ。フェス当日、出演時間近くになっても、ローリンはホテルの部屋から出てこなくて、誰も説得ができない状況だったんです。でも大関さんの話なら聞くということで、大関さんが車で迎えに行って、話をしたんですけど、無事ローリンをステージまで連れてきたんですよね。あれは大関さんのスゴさを知った瞬間でしたね。


大塚陽子 あの時は、私がローリンを神だと思ってるのを知ってて、大関さんから、「陽子、手伝って」って言われたんですよ。「やります!」って言って、エアポートに行ったら、マネージャーも誰もいなくて、彼女一人だけで。荷物はカートが3台あって。バンドメンバーもいたんだけど、彼女だけが違う飛行機で来てたんです。『ミスエデュケーション』で若くして成功して、人間不信になってたんじゃないかな。だけど、最初から知ってる大関さんだけは信用してたんです。


小沢暁子 その時、みんなローリンのことを「ミス・ヒル」って言わなきゃいけなかったのに、大関さんはうっかり「ローリン」って言っちゃって。周りの人たちから、「ミス・ヒルって呼んでください」って何度も言われてましたね。


大塚陽子 ローリンとは目も合わせてはいけないし、話しかけてもいけないのに、大関さんだけは普通に振る舞ってるわけ。逆に大関さんは、「あんなルールを作ってるのは周りだけだよ。本人は変わってないから」って最後まで言ってました。確か、空港に帰る時の車も大関さんが出して、車の中でも普通にスゴく話したと言ってましたね。大関さんには心を開いてたんですよ。


小沢暁子 最後はローリンも折れて、「もうTakaだけはローリンって呼んでもいいわ」ってなってました(笑)。



Lauryn Hill - Doo Wop (That Thing)



ローリン・ヒルからのメッセージ


目黒敦 告別式の時もローリンからメッセージが来てましたからね。


大塚陽子 私、ローリンは知らなきゃいけないと思ったんですよ。どうやって伝えたらいいのかわからないから、まずはインスタのDMに送って。その時に工夫して、大関さんの奥さんが妊婦の時の写真を敢えて送ったの。ローリンは子供には心を開くと思って。SPRINGROOVEの時も、同じエレベーターに乗ってる時に、ローリンが唯一話しかけたのは、誰かのbabyだったから。だから大関さんにbabyがいるよっていうのを伝えたくて。インスタで送った後、彼女のホームページに行って、いろいろある問い合わせの全部にもとりあえず送って。いつか気づいてくれたらいいなと思ってたんです。夜中に送ったんですけど、翌朝起きたら、アシスタントから返事が来てて。タイトルも「Taka Ozeki」で。「She is deeply saddened」って書いてあって。「葬儀はいつですか? 何かできることはないですか?」ってあって。


小沢暁子 ローリンにメッセージを送った時も泣いてて、返事が来た時も泣いてたよね。


大塚陽子 「ちょっと待って」って。大関さん、やっぱりスゴいなと思って。


小沢暁子 SPRINGROOVEの時に、ローリンが大関さんに、陽子のことを、「あそこにいたの、あなたのアシスタント?」って聞いてきて。「僕の部下だよ」って言ったら、「いい子だね」って。陽子のことを話してたの。


大塚陽子 それで、「返事が来たけどどうしよう?」ってなって。私はわからなくて真っ白になってしまって。「そうだ、メッセージをもらおう」と思って。「ローリンからのちょっとしたメッセージも、大関さんにとってはスゴいことだから、それをいただけたらうれしいです」って送ったら、その時、アシスタントはオフラインで。ローリンと行き違いになってたんだけど、「僕がオフラインになってた間に、ローリンから先に来てたメッセージがある」って言って。アシスタントが伝える前に、ローリンからメッセージが来てたんです。


朝倉 “jun” 崇光 「子供も東京に行くんだ」って書いてあったんだよね。


大塚陽子 GREENROOM FESTIVALで、息子たち(YG Marley & Zion Marley)が途中で、「25年前に母と来日した時に会ってるんだ。Takanori, thank you! Rest in Peace, brother. We love you」って言ったんです。ママからメッセージを受け取ってるわけですよ。あと、後日、「Takaの写真が欲しい」っていうので、ローリンに送ったんだよね。家に飾ってあった、大関さんとローリンの2ショットの写真があって。「彼は今、家で眠ってます。彼のすぐそばにこれが飾られてます」って伝えたら、「その写真が欲しい」ってなったんです。やっぱり大関さんはヤバいなと思って。


小沢暁子 でも、それが大関さんには普通なの。


朝倉 “jun” 崇光 大関さんは英語をしゃべらないけど、この人はいい人だなっていうオーラがスゴいので、「Hey, Taka!」って、みんな言うんですよ。


目黒敦 ローリンの話で言うと、丸に「L」のロゴを使うんだという話をされたことがあって。


大塚陽子 黄色に黒の「L」のデザインで、キーホルダーもありましたよね。


目黒敦 大関さんには今の話のようなピュアな部分もあるけど、その時は真逆だと思ったんですよ。当時、日本の世の中はまだ黒人の女の子を受け入れられないから、こうすべきだという話をされて。スゴく冷静で、全部見えてたんですよ。「h」の流れもあるんだろうけど、NYの地下鉄の「L」のアイコンを使って作ったんです。あれはスゴくハッとさせられましたね。


小沢暁子 NYの地下鉄の「N」「R」をモチーフにしてるんですよ。もちろん、フージーズの時にワイクリフやプラズから「L」って呼ばれてたからなんですけど。


目黒敦 ピュアなところもあったけど、どう広げるかというリアルな戦略を持ってた人だったというのが、僕のイメージですね。ローリンからのメッセージも、「私たちの音楽を広めてくれてありがとう」というものだったから。


大塚陽子 私の勝手な大関さんとのつながりの話をしていいですか? ’90年代って、私は思いきり学生で、関西にいたの。その当時って、ビルボードでもヒップホップがガンガン上がってきてて。私もそこの主流に乗ってたわけですよ。フージーズも「Nappy Heads」から大好きで。しかも私、ニュージャージー育ちだから、フージーズなんて、Come on!なわけ。関西にいながら、クーリオのライヴにも行ってるし、フージーズの初来日公演も行ってるし。ローリン・ヒルも大阪城ホールに行ってるんです。いまだに覚えてるのが、ソニーミュージックの最終面接が社長で。最後の質問で、「一番最近行ったコンサートを教えてください」って言われた時に、胸を張って、「ローリン・ヒルです。しかも大阪城ホールです」って答えたら、社長がスゴく食らいついてきて。ソニー・ミュージックの社長がめちゃローリン・ヒルを知ってるじゃんと思って。そこで会話も盛り上がったんです。それで入社して、白金のビルで働くことになるんですけど、洋楽のある3階のエレベーターホールにローリンの等身大の写真があって、しかもサイン入りなわけです。だからわざわざ3階に行って、ローリンのサインを見ながら、「ヤバい。私、ローリンと同じ会社に入れた」って、感無量になってました。大関さんとはまだ接点はなかったけど、私が好きなのは全部大関さんが手がけてて、ローリンもフージーズもやってたというのを知って。洋楽に入る前に紹介された時に、「私、全部好きで、めちゃくちゃ聴いてきました。裏話を聞かせてください」って言ったら、大関さんもうれしくなって。そこから私は洋楽に入って、さらに大関さんの部下になるわけですよ。大関さんとUKのダンス・ミュージック周りをやってる時に、「ファットボーイ・スリムとか聴いてこなかったけど、めちゃめちゃカッコいいね」って言われたことがあって。私は元々ヒップホップが好きだったんですけど、ジャンルなんて関係ないんだなって思いましたね。



オマリオン来日時 2007年2月

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Loud Labelと2000年代


大野俊也 2000年代前半の話ですよね。あの頃、大関さんはKOINUというバンドも手がけてたと思いますが、あれはどういう経緯だったんですか? あと、Loud Labelというのもやってましたよね。


小沢暁子 ’99年にローリン・ヒルが100万枚を超えて。2000年にLoud Recordsをやるってなった時に、大関さん中心のレーベルを作ろうってなったんですよ。その時はクーリオとかウィル・スミスもスゴく売れてて。ヒップホップ・チームに変わりはないんですけど、Loud Labelというのを作って、その後、大関さんは原盤制作もすべきだってなったんです。ライセンスだけでなく、原盤制作でもっとマーケットを盛り上げたいわけだから。それでYKZ、MICHICO、KOINUをやることになったんです。


大塚陽子 大関さんって、Loudでコンピを出してなかった? ヒップホップとバンドのミクスチャーで。


大野俊也 『Loud Rocks』ですね。大関さんの依頼で、僕、ライナーノーツを書きましたよ。


大塚陽子 リンキン・パークとジェイ・Zがやる前、まだマッシュアップとかが流行る前に、そういうのを出してたんですよ。あれも時代の先駆けだなと思いましたね。


松田敦子 そこからロックとヒップホップのミクスチャーが流行りましたよね。


大野俊也 junにも大関さんのことが聞きたいですね。junは超ストリートにいたところから大関さんと仕事をするようになったわけだよね。


朝倉 “jun” 崇光 僕は大関さんとは飲んで遊んでいただいてただけです。大関さん、hondaさんと、NYのクイーンズやブルックリンでラッパーやDJたちと飲むわけですよ。「何とかボム」みたいなひどいお酒をバカみたいに飲まされて。僕が車を運転して行くんですけど、帰りはベロベロで運転できなくなって、大関さんは左ハンドルで運転したことがあまりないのに、運転してくれて。ルーズヴェルト・アイランドまで送ってくれたこともありました。その節は大関さんにはご迷惑をおかけしました。


大塚陽子 junさんがソニーに入るきっかけは大関さん?


朝倉 “jun” 崇光 ビザの関係で帰国した際、大関さんが拾ってくれました!


目黒敦 大関さんとはオマリオンをやったこともありましたね。AMPっていうので洋楽を日本でやろうという時に、大関さんとガッツリやったんです。それが2010年ぐらいかな。その時もやっぱり音楽だけじゃダメで、もっとアーティスト全体をやらなきゃということで、靴を作ろうってなったんです。


松田敦子 MAD FOOT!とコラボしたんですよね。今考えると、カニエ・ウエストがやってるようなことを先にやってましたよね。


目黒敦 MAD FOOT!に通い詰めて。オマリオンにデザインをさせて。台湾まで本人を連れて行って。工場に行って、こういうのをやりたいというのを全部やって。で、アルバムが出て。イオンモールでアルバムと靴を一緒に売る。そういうことをやったんです。


大塚陽子 スゴいローカルマーケティングだ。


目黒敦 オマリオンからもボイスメッセージをもらいましたよね。「Takaは僕のブラザーだ。僕のことをtake careしてくれてありがとう。また会おうね」って言ってくれたんです。


大野俊也 なかなか日本のレーベルと海外アーティストの関係性ではあり得ないことですよね。


大塚陽子 大関さんはアーティストのブランディングを向上させたんです。本来レコード会社ってそこまでやる必要がないんですよ。音源を売るわけだから、ライフスタイルは関係なくて。でも、そこをやるという時点で、ちゃんとアーティストには伝わってたんです。


目黒敦 僕は「そこまでやる必要がない」側だったんですよ。でも大関さんに巻き込まれていったし、巻き込まれることが幸せだった。


大塚陽子 あと、2006年に、大関さんが「この子はいい」ってなったアーティストがいて。スーザン・ケイグルという、まさかのギター1本で歌う人だったんですよ。その時は、大関さんがビリー・ジョエルを好きだったのも知らなかったし、ヒップホップの人だと思ってたから、何でこのギター1本の少女に興味を持つんだろう?って思って。当時、911が起きた後に彼女の人生観は変わるわけですけど、NYの地下鉄で歌うプログラムに申請したら歌えることになって。日本で言うと、ストリート・ライヴですね。彼女は元々、親が宗教団体に入ってたから、普段は学校に通えなくて。一般的な教育を受けてない中、音楽に頼ってたというバックストーリーも壮絶なんです。その時に大関さんは、「この子は何かを持ってる」というので、じゃあやりましょうってなったんです。


目黒敦 全国を回ったんだよね。あれも現場主義だね。


大塚陽子 ギター1本あれば、どこでもできるということで、札幌から福岡まで、私たち4人で回りました。


小沢暁子 デビュー・アルバム『The Subway Recordings』のプロモーションだよね。


Susan Cagle - Stay


大塚陽子 スーザン・ケイグルは大関さんの思い入れがあって、「俺は彼女の音楽は絶対いいと思うから、全国を回るべきだ」ってなったんです。それで、けっこうな日程で組むことになって。なかなか今の時代ではないことですけど、全国を回って、現地のラジオと媒体に会わせる、出演させるというのをやって。九州地方に行った時は、大関さんから、「九州はまかせて」って言われたんですよ。札幌とか名古屋は会社の営業所に頼るんですけど、九州地方は大関さんだけで動いて。番組を一つひとつ細かく回りましたね。しかもめちゃ感謝されるんですよ。夜は媒体の方が演奏できるバーを用意してくれて、そこで本人を歌わせるというをやって。大関さんはヒップホップだけではなく、すべての音楽に気持ちが入ってたんですよね。


大野俊也 結局、仕事としても素晴らしい結果を残してるんだけど、何よりも愛があったんですね。


全員 愛しかない!




VOL.1を読む

https://siiick.space/article/detail/glse7x4p2h


コメント

1件

    • KK25 2025-11-12 03:46:53

      あの葬儀のときのローリン・ヒルのメッセージはそういうバックストーリーがあったのですね。今日11/12は彼が亡くなってちょうど6ヶ月、まだまだ悲しみは癒えませんが、たまたまこの記事(Vol 1&2)をちょうど6ヶ月目の日に見つけました。おーちゃんのことを語ってくれてありがとうございます。声優・ナレーターきむらきょうや

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