Text: Toshiya Ohno
Interview: Toshiya Ohno & Mayo Nozaki
Photography: Toshi Sawajiri
1989年9月のロサンゼルス。ドッグタウンのスケーターたちとハングアウトしていた時のことだ。「Fuck tha Police」、「Straight Outta Compton」、「Gangsta Gangsta」……NGワード連発で、ギャングスターのことを歌ったラップを初めて聴いた、その時の衝撃は今でも忘れられない。その曲を歌っているのは「N.W.A」というグループだと教えてもらった僕は、すぐさまレコード屋に駆け込んだ。レコード屋にあったのは12インチが1枚だけで、4曲入りの『Express Yourself』だった。迷わずそのレコードを買って、裏を見てみたところ、電話番号が書かれているではないか。ダメ元だと思って電話をかけてみると、プレス担当だという女性が対応してくれた。パット・シャーボネットという名前で、後にアイス・キューブの最初のマネージャーとなる女性だった。「日本からわざわざ取材に来た」とカマしてみたところ、「OK」と言って、メンバーの電話番号をくれて、事前に連絡をしておくから、直接電話して取材の日時を決めてほしいと言ってくれた。少ししてからその番号に電話してみると、電話に出たのはアイス・キューブで、数日後に彼のママの実家で取材をやろうという話になった。
GPSもない時代だから、アイス・キューブから教えてもらった道順を元に車で向かうことになった。フリーウェイのこの出口を出て、このストリートで右折して、あの建物で左折して、という感じで向かったのだが、あまり迷うこともなく目的地にたどり着くことができた。エリアとしてはウエストモントというところで、ダウンタウンLAの南、イングルウッドの東で、いわゆるサウスセントラルLAと呼ばれる地域の一角だった。N.W.Aの地元はコンプトンだが、アイス・キューブだけは例外だったのだ。とは言え、ウエストモントもなかなかタフなネイバーフッドだ。ヴァン・ウィック・ストリートにあったその家は、こじんまりとはしているものの、庭もあるきれいな平屋建ての一軒家で、ギャングとかバイオレンス、貧困といったイメージは全くなかった。家の中にはアイス・キューブ本人が案内してくれて、ママにも挨拶をさせてもらった。
1989年と言うと、ヒップホップは圧倒的にNYが中心の時代で、LAには遅れているイメージがまだあった時代だ。アイス・Tの存在感はすでにあったし、Delicious Vinyl所属のトーン・ロックとヤングMCはヒット曲を出していたし、MCハマーも頭角を表してきていた。しかし、LAのヒップホップ・シーンがどのようなものかは日本では知られてなかったし、N.W.Aの存在自体が完全にノーマークで、日本では全くニュースにもなっていなかった。ただ、デニス・ホッパーが監督した映画『Colors』(邦題は『カラーズ 天使の消えた街』)が1988年10月に日本でも公開されることで、一気にLAのギャング、LAのヒップホップ、主題歌を歌っているアイス・Tに熱い注目が向けられるという状況も始まっていた。
この取材をした当時、アイス・キューブは20歳だった。同時に、この取材は僕にとって初のアメリカでのヒップホップ・アーティストの取材となった。今振り返ると、ストリート、リアル、ギャングスタ、ウェッサイ……後にトレンドとなるようなキーワードのすべては、この時代のN.W.Aから始まっているのだ。20歳のアイス・キューブは聡明で、頭の回転も早く、話も脱線することなく、真っ直ぐにインタビューに応えてくれた。話している内容自体、後の彼の発言と全くブレていないのにも驚かされるはずだ。
今回初公開となる、1989年9月23日のインタビューの全文を以下に掲載する。

アイス・キューブ。ママの実家のリビングルームで
N.W.Aとは?
◼️N.W.Aはどういうラップ・グループですか?
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