その刊行を記念して10月22日、ロック・ステディ・クルーを代表するリチャード・“クレイジー・レッグス”・コロンが来日する。1983年、『Wild Style』のツアーで初めて日本を訪れてから40年以上。今回は、本書の刊行記念イベントのため、再び日本のヒップホップ・コミュニティを訪れる。
本書で描かれているのは、ブレイキングがNY・ブロンクスのストリートから世界中へと広がっていったムーブメントの物語である。未公開写真の数々と、これまで語られてこなかったストーリー。ストリートやパークでのジャムやバトルから、海外のステージ、映画、ミュージックビデオ、ツアー、そして文化施設まで。何十年にもわたって一つのカルチャーを背負う中で経験した、犠牲、友情、ライバル関係、勝利、過ち、喪失、学び、そして責任が、本書には描かれている。
クレイジー・レッグスはそこで、ロック・ステディ・クルーが当時どんな意味を持っていたのか、現在は何を象徴しているのか、そしてヒップホップのパイオニアたちが持つ本物の声を次の世代へと残していくことが、何故重要なのかを振り返る。
SiiiCKでは、来日を前にクレイジー・レッグスにインタビュー。ブレイキングとの出会い、ロック・ステディ・クルー、世界へと広がっていったカルチャー、そして自分たちが生み出したものを次の世代へ残していくことについて、話を聞いた。
Interview: Toshiya Ohno
写真の裏にある、まだ語られてこなかったストーリー
SiiiCK 初めて日本に来た時のことは覚えています? 1983年の『Wild Style』のツアーでしたよね。
クレイジー・レッグス そうそう。あれが『Wild Style』が最初に上映された場所だった。アメリカよりも先だったんだ。フラン・クズイっていう女性がいてさ、旦那さん(注:映画プロデューサーの葛井克亮)も一緒だった。二人とも今回の本には登場してるよ。フランが映画監督のチャーリー・エーハーンのために、イベントを仕切ることになったんだ。俺は当時まだ17歳だったから、何がどうなってるのか、ビジネスのことなんて何もわかってなかった。そもそも興味がなかったし、遊ぶのに夢中だったからね。だから今回、この本を作ることでいろいろ学ぶことができた。本を作ってる間に、忘れてたことをたくさん思い出したんだ。そこから、いろいろ資料を見比べたり、人に電話したりして、全部が正しいかどうかを確認しなきゃいけなかった。編集者のイアン・ルナ(注:今回のプロジェクトを立ち上げ、形にしたRizzoli社の編集者)も、いくつかの点で俺の記憶を訂正してくれたよ。だって、ものスゴく昔のことだからさ。
SiiiCK 過去の記憶を一つひとつ、つなぎ合わせていったわけですね。
クレイジー・レッグス そうなんだ。この本では、時系列をはっきりさせてるし、当時裏で誰が何をしてたのか、詳しくわかるようにしてる。本の中の写真の多くは一枚のイメージかもしれないけど、その裏には、その日に起きた出来事のストーリーがあるからね。『Wild Style』にしても、この本では未発表の写真を出してる。それは俺が撮った写真で、写真を見ながら、俺たちが楽しく過ごしてた頃の、めちゃくちゃな出来事や面白い話をしてる。普通なら誰も予想もできないようなことや、一度も聞いたことのないような話をね。多くの人は、すでに歴史は充分に知ってるつもりだろうけど、俺は自分の人生について、あえて話してこなかったことがある。いつか自分のストーリーを語る日が来ると思ってたからだ。映画になるかもしれないし、本になるかもしれないってね。だからこの本では、みんなが知らない話をたくさん入ってるし、家族についての話も入ってる。
SiiiCK 貴重な写真もたくさん掲載していますよね。その中でも特にレアな写真というと、どのようなものになりますか?
クレイジー・レッグス 「Interview Magazine」でも仕事をしてた、アントニオ・ロペスっていう人がいてね。スゴく有名で、評価の高いファッション・イラストレーターなんだ。「Antonio's Girls」っていう本を出した時に、スタジオ54でイベントが行われたんだけど、俺たちも出演したし、その時の話も写真も入ってる。俺たちはアントニオのスタジオにもよく行ってたんだ。彼はグレイス・ジョーンズのキャリアを始めた人でもある。それに、本当に多くの人たちをサポートしてた。'81年頃には、彼のスタジオでロック・ステディ・クルーの写真を撮ったこともあってさ、その撮影のレアな写真も本に入ってるんだ。
SiiiCK それは見てみたいですね。
クレイジー・レッグス それから、俺とマドンナの写真もある。ジーン・ケリーの写真もある。タップダンスのニコラス・ブラザーズ、グレゴリー・ハインズの写真もある。ハリウッドの伝説的な人物、キャロル・バーネットやローレン・バコールの写真もある。だから、本当にたくさん写真があるんだ。中でもみんなが、特にカリフォルニアのヤツらが、めちゃくちゃ興奮するようなものがあるよ。カリフォルニアでヒップホップの4大要素(MC、DJ、ブレイキン、グラフィティ)が初めて全部揃ったイベントの写真があってさ。そのうちの何枚かを、この本に載せてるんだ。俺たちがフランスとイギリスでやった「New York City Rap Tour」から帰ってきて、ちょうどすぐ後のことだ。あれはたぶん、1982年の12月だったと思う。ツアーが終わって、一旦NYの家に帰った後、すぐにカリフォルニアに向かったんだ。それはまさに、フランスで俺たちがやってきたことの続きで、延長戦みたいな感じだったよ。
SiiiCK その時のメンバーは?
クレイジー・レッグス アフリカ・バンバータ、B-サイド、グランド・ミックス・アット・D.ST、グランドマスター・カズ、ロックステディ・クルー、FUTURA 2000、ファブ・5・フレディ。それから、たぶんZEPHYRもいたと思う。そして、その時に俺は初めてブーガルー・シュリンプに会ったんだ。

「ヒップホップ」というワードがまだなかった時代
SiiiCK 錚々たる名前ですね。改めて、一番最初の話も聞かせてください。まだ「ヒップホップ」なんて名前もなかった頃の話です。それでも、地元で起きていたことを目の当たりにして、自分も夢中になっていった時は、どのような感覚でした?
クレイジー・レッグス 俺の場合、生きていくこと自体がサバイバルみたいな環境で育った。他のみんなと同じように、そういう環境に適応しようとしてたんだ。決して安全とは言えない環境の中で、どうやって生きていくかを学んでいった。お金がなければ何もできなかったし、当時は使えるプログラムなんてほとんどなかった。お金があったとしても、結局はどこかに移動しなきゃいけなかった。そんな状況の中で、俺が初めてジャムに行ったのが1977年だった。ブレイキング自体はすでに見たことがあったんだ。’76年には、アフリカ・イスラムと兄のロバート・コロンが踊ってるのを見てたから。でも、何をやってるのかはわからなかった。二人は歩道で踊ってたんだけど、床に身体を投げ出してるから、俺はスゴく恥ずかしかった。でも、それを俺はその後の人生でずっとやることになるんだ。その時にジャムで見たものは、まだ「ヒップホップ」と呼ばれる前のものだった。だから、「ジャムに行こうぜ」、「ブレイキングとか、いろいろやるらしいぞ」って言うだけだった。そこにはMC、DJがいて、グラフィティ・ライターもいた。俺は、そこで目にしたすべてのエネルギーに夢中になったんだ。10歳の時だよ。そこにいた人たちの多くは、俺よりも2~3歳くらい年上だった。10歳の子供からしたら、13歳とか14歳って、身長も高ければ、見た目も全然違ってる。周りにあるものすべてが、ものスゴく大きくて壮大なものに感じたんだ。しかも、そのイベントに行った時、俺は踊り方なんて知らなかった。服もヒップホップには見えないものだった。それに、俺はスゴくシャイな子だったんだよ。だから、踊りやその場全体の雰囲気、そこで起こってた人と人との交流を見た時に……「うわ、これはスゴい社会的現象なんだ」なんて考えられるわけがない。10歳の子供がただ、「うわあ、これは楽しい!」って思っただけなんだ。
SiiiCK そこから夢中になったわけですね。
クレイジー・レッグス そうなんだ。あとはもう、練習をしたくて仕方がなかった。毎週、練習して、練習して、練習して、ただただ上手くなりたかった。次のジャムに行った時は、たとえ誰かのムーブを盗んだとしても、できるだけ自分らしく違って見えるようにした。そうすれば、みんなが俺の踊りを見た時に、「うわ、これが新しいバック・スウィングだ」とか、「これが新しいウィンドミルだ」みたいに思ってくれるから。実際、ウィンドミルは俺が生み出したものだしね。
SiiiCK 新しいものを生み出したかったんですね。
クレイジー・レッグス そう。しかも、創作する余地がたくさんあった。当時はムーブ自体がそんなに多くなかったから。そういう状況では、本当に踊り方を知らないといけない。フットワークとトップロックが本当に上手くないといけなかった。床でできるムーブはそれほど多くなかったんだ。それに、もし一つムーブを覚えたら、例えばチェア・フリーズを覚えたとしても、左側と右側の両方でできるようにしてた。スワイプも左側と右側。タートルも左と右。それで、いろんなトランジションを作るんだ。左側でチェア・フリーズに入って、そこから抜けて、何か別の動きをして、反対側に移る。そうすると、たくさんのムーブを持ってるように見えるんだ。それで、みんなが「うわ、あいつ、めちゃくちゃムーブを持ってるな」って言う。でも実際には、同じムーブを左右でやってるだけだ。そこに、人とはちょっと違う自分ならではのスタイルを加えてたんだ。
SiiiCK 自分が生み出した中で、一番印象に残ってるムーブは何になりますか?
クレイジー・レッグス ムーブって、失敗から生まれることもあるんだよ。バック・スピンにしてもそうだし。ウィンドミルもそう。元々は「コンティニュアス・バック・スピン」って呼んでたものだ。あとは、1990もそうだね。でも、1990っていうのは本当の名前じゃなくて、俺たちは「ハンド・スピン」って呼んでた。逆さまになって、身体をまっすぐにした状態で回るヤツ。俺たちはよくいろんな場所に遠征してたし、NYではムーブについていろんな人が話をしてた。でも、彼らは俺たちと一緒にいたわけじゃないから、ムーブとその名前を混同したんだ。だから、本来の「1990」は、俺のムーブとは違う。ケン・スウィフトが生み出した別のムーブなんだ。俺のはハンド・スピン。彼のが1990。でも、いつの間にか彼のムーブの名前が、俺のムーブにも使われるようになった。だから、そこにはちょっとした混乱があったんだよね。



ロック・ステディ・クルー
SiiiCK そもそも、ロック・ステディ・クルーに入ったきっかけは何だったのですか?
クレイジー・レッグス ロック・ステディ・クルーは当時最高のクルーの一つだったから、入りたかったんだ。俺は、自分のことをロック・ステディ・クルーに入れてくれた人たちほど上手くはなかったけど、彼らは俺には可能性があると思ってくれた。だから、ずっと練習をしてたよ。俺とレニー・レンは、ロック・ステディに入るためのバトルをした時に、負けたんだ。でも、彼らは俺たちの可能性を見てくれた。ジミー・Dとジミー・リーが、俺たちをロック・ステディに入れてくれたんだ。
SiiiCK その二人はオリジネーターですね。
クレイジー・レッグス 俺を最初に入れてくれた、ジミー・Dとジミー・リーの二人にはリスペクトだよ。
SiiiCK '81年、当時まだ16歳で、ロック・ステディ・クルーのリーダーになりましたよね。めちゃくちゃ若くないですか?
クレイジー・レッグス いや、15歳だった。でも、ごく当たり前のことだった。俺たちの多くはスゴく若かったんだ。それに、リーダーになろうという気持ちだってあった。でも、リーダーになるためのスキルは持ってなかった。だから、何をすればいいのかわからない時でも、わかってるふりをしなきゃいけなかった。だって、自分がわかってなかったり、自信がなさそうに見えたりしたら、クルーのみんなもそれを感じ取るからね。そうなったら、クルーはバラバラになってしまう。
SiiiCK メインストリームのシーンや、世界中の人たちに認められるようになった時は、どのような気持ちでした?
クレイジー・レッグス 当時、俺たちのマネージャーだったクール・レディ・ブルーや、ヘンリー・チャルファントみたいな人たちが、俺たちをアート・シーンやポップ・カルチャーの重要な場所に連れていってくれた。俺たちが最初にThe Kitchenでやったショーは、ヘンリー・チャルファントがキュレーターを務めたんだけど、ジャン=ミシェル・バスキアやアンディ・ウォーホル、キース・ヘリング、クリス・スタインといった人たちも来てた。そのイベントには、俺が知らない人もたくさんいたんだ。ダウンタウンのアート・シーンの著名人や、パンク、ニューウェイブの人たちが来てたし、レゲエ・シーンの人たちもいた。いろんなシーンがあって、あのイベントをきっかけに同じ場所に集まってきたんだ。
SiiiCK 映画もブレイキングを世界中に広める上で、大きな影響力がありましたよね。『フラッシュダンス』が与えた影響も大きいと思うのですが、あの映画の中でバック・スピンをやっていますよね。
クレイジー・レッグス 俺はヒップホップで初めてドラァグの格好をした人間なんだ。監督のエイドリアン・ラインが俺のところに来て、「スタントダブルたちにバック・スピンを教えてくれないか」って言ってきたんだ。俺は、「いや、一日じゃ覚えられないよ」って答えた。撮影が次の日だったからね。実際、次の日に彼らが来た時、みんな身体中がアザだらけだったよ。バック・スピンを覚えようとして、練習したからだ。それで急遽、俺がやることになったわけだ。当時の俺は16~17歳で、ちょうどヒゲを生やし始めた頃だった。自分では「俺も男になってきたな」って感じてたんだ。それなのに、向こうはヒゲを剃ってくれって言うんだ。脚の毛も剃ってくれって。俺はそれに対してスゴく抵抗があったね。ラティーノだし、ストリート育ちだし。自分では「男らしくなってきた」って思ってたからね。でも、充分なギャラを払ってくれたから、まあいいかってことになって。俺は貧乏だったし、お金がなかったから。そういう機会をもらえたこと自体が、本当に幸運だったと思うんだ。今となっては、面白い話だしね。
SiiiCK 『Wild Style』とか『Beat Street』といった映画の影響についてはどうでしたか?
クレイジー・レッグス 『Wild Style』は面白いよ。どちらかというとカルト・クラシックだからね。世界的に見ても、上映された映画館はそんなに多くないんだ。でも、みんながVHSを買って、人から人へと共有するようになって、カルト・クラシックになっていった。サウンドトラックも同じように広まっていった。それに、『Wild Style』に出ていた人たちの多くは、実際にカルチャーの中でも最高レベルの人たちだったからからね。『Beat Street』は、まあ、良かったよ。商業的だったけどね。結局、どの映画もそうだけど、脚本が良かったとか、演技が上手かったとか、そういうこと以上に、エンターテインメントとしての力が大きかったんだ。パフォーマンスだよね。そういうものがあって、あの映画はずっと生き残ったし、カルチャーを広げるのにもつながった。だって、子供の頃にあれを見たら、「うわ、俺もやりたい」って思うだろ? 他の子供たちも、スクリーンに映ってる、同じような若い俺たちを見て、「俺もあんなカッコいいことをやりたい」って思ったんだよ。
SiiiCK ムーブの話に戻りたいのですが、新しいムーブを生み出した時って、インスピレーションとなるものがありましたよね。当時はカンフー映画も流行っていたし、ラティーノのあなたにとって、音楽とダンスは伝統的に結びついているものだから。
クレイジー・レッグス 実際に、カンフーとか空手を取り入れようとする人たちはいたよ。でも、俺が考えてたのは、「カンフーのこの動きを、どうやってブレイキングに活かせるのだろう?」ってことだった。つまり、リズムをつけて、ダンスとして見せることだ。あるいは、体操にしても、「オリンピックの体操みたく見せないで、どうやったら宙返りをできるんだろう?」って考えるんだ。だから、結局はクリエイティヴィティの話に戻るんだよ。どうやって自分のものにするかということだ。ほら、よく「日本人は何でも一番いいものを取り入れて、それを自分たちのものにする」みたいなことを言うじゃない? 俺たちが身体の動きでやってたのも、それと同じことだ。目で見たものを取り入れて、自分たちのものにしていったんだ。


『ROCK STEADY FOR LIFE』で見せたかった自分たちのコミュニティ
SiiiCK 今回、本を作るプロセスはどのようなものでした? 長い間忘れていたことをたくさん思い出したわけですよね。そういう記憶や写真を集めていく中で、自分が当時何をしていたのか、その全体像は見えてきましたか?
クレイジー・レッグス 本を作る過程では、大きなプレッシャーを感じたよ。自分は作家じゃないからね。俺にとってはかなり大変なことだった。昔の写真を見返すのも大変だったし、途中で泣き出してしまうこともあったよ。亡くなった友達がたくさんいるからね。それに、子供の頃のことをいろいろ思い出すと、スゴく感情を揺さぶられるんだよね。だから、編集者には何度も電話して、質問をした。出版業界の専門用語で話されると、俺には意味がわからなくなるんだ。「引用文って何?」とかさ。それに、写真を選ぶこと自体も難しかった。昔のメンバーや友達、昔のカメラマンに連絡して、貴重な写真を探すのは大変だった。ロック・ステディ・クルーの顔として知られてる人たちだけじゃなくて、クルーの一員だった人たち、一緒にジャムに行ってた人たち、バトルの時に俺たちの隣に立ってた人たち。一緒に遊んで、喧嘩もして、それでも兄弟や姉妹みたいに仲直りして、また一緒に過ごした、そういう人たちのことだ。だから、そういう人たちの顔も本の中に入れたかった。これはただ踊ってる人たちだけの話じゃないからね。一緒に過ごしてきたみんな、クルーやファミリーを形作ってきたみんなの話だから。
SiiiCK ロック・ステディ・クルーは日本にもコミュニティを作りましたよね。それも素晴らしいことだと思うんです。
クレイジー・レッグス 日本にはたくさん友達がいるからね。もちろんアキラ……CRAZY-Aのことは知ってるよね。でも、俺がアキラに会ったのは'90年代になってからだ。その時になって、初めて彼から当時の話を聞いたんだ。俺たちが代々木公園のイベントに出た日のことだよ。あの時に撮影した写真は本にも入れてるけど、誰も見たことのない写真だ。今となっては、当時、ポッピングやロッキングをやってる人たちがいたことも、俺は知ってる。でも、それはまた別のものだった。ヒップホップということになれば、CRAZY-Aが道を切り開いた人ということになるよ。そこは、誰にも彼の功績を奪ってほしくないと思ってる。
SiiiCK あと、スゴく面白い話がありますよ。僕は'97年にNYのロック・ステディ・クルーの20周年記念イベントに行って取材をしたのですが、その時にZeebraも来ていたんですよね。今回の来日では、Zeebraと一緒にトークショーをやる予定ですが、彼はここ数年、日本でMCバトルをかなり盛り上げているんです。そのZeebra曰く、’97年の20周年記念パーティからのインスピレーションで、MCバトルを始めたとのことなんですよ。
クレイジー・レッグス 素晴らしいね! まあ、それが本来あるべき姿だよ。そうやってカルチャーは生き続けていくわけだから。Zeebraはラッパーとして、この業界で本当にたくさんのことをやってきた。テレビにも出てるし、時にはパフォーマーではなく、プロデューサーになることもある。ZeebraはNYのヒップホップ・シーンからもスゴくリスペクトされてるよ。
'97年に取材に行った、NYのロック・ステディ・クルーの20周年記念イベント。Zeebraの写真もある(右)。WARPに掲載された記事の一部

SiiiCK 2024年のパリ五輪で、ブレイキングがオリンピック競技に採用されました。もちろん、良い面も悪い面もあると思うのですが、オリンピックについてはどう見ています? ブレイキンがここまで来た、という思いはありました?
クレイジー・レッグス うーん、オリンピックに行くことを夢見てた人もいたと思うよ。でも、俺は違ってた。俺はまずカルチャーを大事にしたいから。もしオリンピックをただ観てもらいたくて、視聴者の目を集める機会としてブレイキングを捉えてるんだとしたら、それはそれで別にかまわない。でも、カルチャーのことを考えるのなら、ブレイキングの歴史やパイオニアたちに、もう少し敬意を持って向き合うべきだと思う。だって、このオリンピックにはパイオニアたちが全く関わっていないからね。それはリスペクトが欠けてる証拠だと思う。ジャッジにしたってそうだよ。
SiiiCK ジャッジも、スタッフもいないんですか?
クレイジー・レッグス いないね。でもまあ、パリは初めてだったし、まだ正しい方向に持っていく時間はあると思うんだ。だから、あまり厳しく言いたくはないんだ。もし、2032年にオーストラリアで開催される時に、何も改善されず、正しいことをやらなかったら、大きな問題になると思うけれど。

ブレイキングというカルチャー
SiiiCK だからある意味、今のタイミングでこの本が出るのは、スゴく良いことだと思うんです。
クレイジー・レッグス この本を通して、いろんなことを知ってもらえるだろうから。すでに知ってることに加えて、違うストーリーを知ってもらうのはいいことだ。それに俺自身としては、メジャーな出版社から本を出すラティーノのパイオニアになれたというのが、本当にうれしい。そして一番大事なのは、この本が上手くいけば、他のBボーイ、Bガールにも、メジャーな出版社から本を出す機会が生まれるということだ。もちろん、俺自身も経済的に成功したいと思ってるよ。でも、自分自身が成功する先にある一番大きなご褒美は、次の人たちにも何かしらの成功があることなんだ。
SiiiCK あと、「ブレイキング」「Bボーイ」とは何なのか、今一度、その定義をちゃんと伝えてもらえませんか。「ブレイクダンス」って呼んでいる人も多いから、そこは訂正したいですよね。
クレイジー・レッグス まず、「ブレイクダンス」という言葉は、ヒップホップから生まれたものじゃない。俺のマネージャー、クール・レディ・ブルーがそう呼んでたものだ。彼女は俺たちの広報担当だったけど、俺たちに確認することなく、プレスリリースを書く時に、「ブレイクダンス」って表現してしまった。俺たちはそのことを知らなかったんだよ。
SiiiCK そうだったんですね。
クレイジー・レッグス Bボーイ、ブレイクボーイ、ブレイクガールっていうのは、ビートに合わせてブレイクのところで踊るということだ。もし、Bボーイとは何なのか? Bボーイングとは何なのか?を説明しなきゃいけないとなると……たぶん、絶対に理解できないと思う。結局のところ、心で感じるものだから。誰かを見ていて、その人が一番大きな技を繰り出してくるわけじゃなくても、やってることが音楽とスゴくつながっていて、そこからソウルが伝わってくるとしたら……俺にとっては、それがBボーイ、Bガールになるんだ。その人が何をどうやってるのか、上手く説明できないことだってあるよ。それは、個人のキャラクターだったりするから。それに、個人のスタイルって、人によって違うものだ。だから、スゴく幅の広い定義になると思う。
SiiiCK ちなみに、これまでやってきたバトルで、一番印象に残っているのは?
クレイジー・レッグス ロック・ステディ・クルーに入るために、ジミー・D、ジミー・リーとバトルした時だね。あれが一番印象に残ってる。俺は負けたけど、ロック・ステディ・クルーに入る道を勝ち取った。でも、自分はもっと上手くならなきゃいけないっていうのもわかっていた。それで、もっと上手くなった。もっと一生懸命練習するようになったんだ。
SiiiCK 当時、一番のライバルは誰でした?
クレイジー・レッグス 全員だよ。それだけみんな上手かった。ソロで、一人のダンサーとしては、全員と戦いたかった。ロック・ステディ・クルーのメンバーのほとんどは、加入する前に一度はバトルしてたから、全員とやりたかった。本当に全員とだ。もし一人だけ挙げるとしたら、その瞬間の相手だった。それで、次は誰だ? 次は誰だ?って、次から次へと相手を探していった。当時、俺たちが「Bボーイ・フィーバー」って呼んでたものがあるんだけど、練習に取り憑かれて、次にバトルする相手を探すことしか考えられなくなる状態なんだ。ずっと止まらない。とにかく、自分の実力を試したくなるんだよね。
SiiiCK “Crazy Legs” という名前の由来も聞かせてください。
クレイジー・レッグス 中学生の頃だけど、チアリーダーのキャプテンが、俺が踊ってるのを見て、「あなた、スゴくクレイジーな脚(レッグ)をしてるわね」って言ったんだ。それで、学校中のみんなが俺のことを “Crazy Legs” って呼ぶようになった。彼女は学校で一番イケてる女の子だった。しかも上級生で、俺は新入生だったんだ。そんな女の子が俺にニックネームをつけてくれたんだよ。人生でそういうことが起きたら、もう受け入れるしかないよね(笑)。
SiiiCK 最高ですね。それは断れない話ですよね。
クレイジー・レッグス そうそう。否定できないよね。俺がそれを拒んでいたら、バカだったと思うよ。
SiiiCK 今回の来日では何をしたいですか? 日本にいる人たちに何を伝えたいですか?
クレイジー・レッグス 日本は本当に大好きだし、嫌な思いをしたことが一度もないんだ。だから俺にとっては、素晴らしい人たちと一緒に過ごせる機会を持つことを大切にしたい。本は本で一つあるけれど、自分が大好きな文化に囲まれる機会というのは、俺にとっては何よりも大切なものになるから。それに、日本の人たちが、表面的な部分だけを見るのではなく、その先にあるものを知ろうとして、カルチャーについて本当に深く学ぶ姿勢には、ずっと敬意を抱いてるんだ。単なるポップカルチャーとして扱うんじゃなくて、本物のカルチャーとしてとらえてくれる。日本の人たちが俺たちに、そしてヒップホップ・カルチャー全体に向けてくれたリスペクトにも感謝してるんだ。
『ROCK STEADY FOR LIFE』

著者:Richard “Crazy Legs” Colón & The Rock Steady Crew
発売日:2026年9月22日
仕様:ハードカバー
カテゴリー:音楽/ラップ&ヒップホップ
出版社:Rizzoli
判型:8 × 10インチ
ページ数:256ページ
米国定価:50.00 USドル
カナダ定価:67.50 カナダドル
ISBN:978-0-8478-7708-9
クレイジー・レッグス 来日イベント情報
10月23日(金) 20:00~22:30
ウェルカム・パーティ MUSIC by DJ TA-SHI
会場:NONLECTURE books/arts
東京都渋谷区宇田川町16-9 渋谷ゼロゲートビルB1F
10月25日(日) 19:00~20:30(18:45開場、20:30~21:00はサイン会)
登壇者:クレイジー・レッグス、Zeebra、Mari Koda
会場:代官山 蔦屋書店 3号館2階 イベントスペース
東京都渋谷区猿楽町17-5
参加条件:イベントチケット予約・販売サービス「Event Manager」にて、いずれかの対象商品をご購入いただいたお客様がご参加いただけます。お申し込みにあたっての注意事項、その他の詳細は代官山 蔦屋書店公式HPにてご確認ください。
https://store.tsite.jp/daikanyama/event/music/56523-1818130829.html
10月26日(月) 19:00~23:00
会場:経堂ripple
東京都世田谷区宮坂3-12-2 2階
Instagram: @ripple_kyodo
Crazy Legs
Instagram: @crazylegsbx
SiiiCK Official
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